2015.04.25
with
倉方俊輔(建築史家)
around
長堀橋~空堀~大阪城 〈大阪市〉
長堀橋から歩いて大阪城までやって来ました。これぞ、ザ・大阪!?
#04
迫力の石垣/不思議な復元/バリアの意味/建築の見かた
―大阪城を観察して終えましょう。天守閣のそばまで行く時間がなさそうなので、堀の外側からになりますけど。
倉方:この石垣はさすがに迫力ありますね!
―高さも10階建てのマンションくらいはありそう。ここを攻め落とせって言われても、無理無理!ってなりますね。
建造物には見た目による根源的な説得力があるんですよね。この大きさ、迫力を見れば、攻め落とすにも戦略的にやらないと不可能だと誰だって思うはず。天守閣は、大阪市民の募金によって1931年に復元されたものです。それまでは、城を復元するなんてこと、どの都市も思いつきもしなかった。今では当たり前に思ってしまいますけどね。大阪が国と交渉して、そこにあった軍の施設を別の場所に移して、復元が実現した当時の一大プロジェクト。だから、軍の新しい施設も大阪がお金を出して作ったんですよ。
―軍まで動かして、市民からお金を集めてって、想像するだけでも大変そう。
国家と軍を相手に交渉しているわけだから、それだけ戦前の大阪はお金と力があったということですね。ちなみに、大阪城の天守閣は5層目だけが豊臣時代の城にあった、黒壁で金の装飾で、その下のすっきりした白壁はむしろ徳川秀忠の時代に建てられた、2代目の大阪城の形です。実は結構、変な復元なんですね。
―そうでしたか! ぜんぶ黒壁にした方がかっこいいのに。
そう思うのは今の感覚だから。城の復元なんて前代未聞だから、ある程度、みんなが納得する城っぽさが必要だし、当時のモダンデザイン的な美意識も入りこんでいるので、今の形に落ち着いたんですね。
―復元とはいえ、その時代のバイアスがかかっているんだ。
歴史というのは、常にバイアスがかかっているものですよ。大阪歴史博物館の前で復元されていたような古代家屋にしても、戦中に発掘された登呂遺跡を、戦後に関野克という建築史家が復元したものがひとつのモデルとなっていますけど、関野がモダニストだったので、かなり合理的なデザインで復元されたということです。
―古代住居にもモダンデザインの影響!
他のアジアの古代家屋って、もっとぐちゃぐちゃとした設計なんですね。そう思えば、大阪城の復元なんて、より多くの人が納得する形をとらざるをえない。市民の浄財でつくってるわけですし。よくも悪くも公共性って、そういうことじゃないでしょうか。
―見事なまでにパブリックの話に戻ってきました。
今日は、柵やバリアの話からはじまって、最後はバリアそのものの表現といえる城がゴールでした。
―今日は期せずして、街のバリアを観察していたことになりますね。
バリアが何重にもあるのが都市の証。見知っている人しかいない農村だったら、バリアをつくる必要なんてない。不特定多数の人が来られる場所だから、峻別する必要があります。だから、バリアが悪いわけじゃなくて、少し変な言い方ですが、いかに気分よくバリアをつくれるかが、都市性というものではないか。無粋なバリアを張らなければいけないのは、設計がうまくいってないってことですから。
―気分のいいバリアとは何か、ですね。
悪いことを未然に防ぐという役目がバリアにはあるわけだから、実は、バリアも人のためにある、やさしさの表現だとも言えます。
―「ここから入ってはいけませんよ」という言い方みたいなものですね。
そうそう、どんな言い回しかで結果は変わってくる。そのやりとりも楽しい。それって大阪の得意分野ですよね(笑)。要するに、世代や時代や背景によって「常識」すらも、実はだいぶ異なっていたりします。それらの関係性の面倒くささをないことにして処理するのではなくて、上手につき合う技が、豊かさを生みだすパブリックな都市の知恵なんでしょうね。人づき合いも、デザインも。
文:竹内厚 写真:沖本明