当コラム枠、ふたたびの登場となる平山亜佐子さんには「図書館」をテーマに原稿を依頼しました。図書館はただ本を借りるだけの場所じゃないんです。
先月、「学校が始まるのが死ぬほどつらい子は、学校を休んで図書館へいらっしゃい」という鎌倉市図書館のツイートが話題を呼んだ。
夏休みが終わる九月一日に子どもの自殺が多いというデータを受けて発信されたという。わたしもひとりでいることが好きで、小学校時代には読書に逃避していたクチなので、気持ちはよくわかる。
居場所のない子どもにとって、本はつらい現実から一瞬にして居心地のいい別世界に連れて行ってくれる夢の乗り物、図書館はその車両基地みたいなものだった。
本の虫だった時代から幾年月、気づけば本を書く仕事をし、図書館と親密に付き合うようになった。現在わたしが利用しているのはおもに3区の区立図書館と、国立国会図書館、都立図書館、各大学図書館だが、インターネットによる全国図書館横断検索や文献のデジタル化が進んで、とにかく調べものが楽になった。
利用者のなかには東京23区すべての図書カードを持つ人や、いかに効率よくたくさんの図書館を廻れるか日々追求しているマニアックな人もいるが、それが可能になったのも情報化、デジタル化のおかげだろう。
関係者の努力には本当に頭が下がる。
一方、コンテンツの進化に目を向ければ、読書会やビブリオバトル、朝活、音楽演奏会などを活発に企画し、開催している図書館も多い。静かな図書館と演奏会のギャップに驚いたが、音楽や楽器や作曲者など興味の開口を広げることが利用者の増加につながることを思えば、不思議はないのかもしれない。無料で本を借りられるだけの場所から、発見や体験を積極的に提供する「場」へと変貌を遂げつつあるようだ。
といっても、新しい試みにばかり力を入れていてもアンバランスだ。
民営化し、コーヒーチェーン店やレンタルDVD店とコラボした結果、読み聞かせ部屋を無くしたり、貴重な郷土資料などを除籍(廃棄)してしまった佐賀県のとある市立図書館などはその例だろう。
高価で大部の本や、歴史的資料は図書館にこそ所蔵してもらうべき本だ。
あらゆる国民に対し知識の平等を実現するという公共図書館の基本理念を蔑ろにする行為として大いに非難を浴びているようだ。
文化的意識の高い取り組みと並行して公共性、公平性を同時に持つことは、図書館の忘れてはならない使命だと思う。
本や雑誌に文章を書くようになって意識するのは、居場所がないと感じている人たちにこそ届けたいということ。
自分を振り返ってみても、本にのめり込んでいた時期の「貯金」で書いているようなものだと感じることが多いからだ。
文化を伝え、守り、継承していく繋ぎ手は往々にして孤独な弱者である。
その思いを常に持ちながら、図書館や本とつきあっていきたいと考えている。
平山亜佐子
文筆家/挿話蒐集家/ときどきデザイン。著書に『20世紀破天荒セレブ ありえないほど楽しい女の人生カタログ』『明治大正昭和 不良少女伝 莫連女と少女ギャング団』。唄のユニット「2525稼業」主宰。『純粋個人雑誌 趣味と実益』発行中。
https://asakojournal.blogspot.jp/